たまたま朝起きて、テレビをつけたら、まだアメリカにいたころに話題になった「女王の教室」を全話再放送していたので、さっきから見ている。
今、第6話をやっているけど、これ見ていて思うのは、このドラマが、人の心をひきつけるのは、主人公の阿久津真矢の伝えるメッセージ、
「所詮、人は自分のことしか考えていない」
「弱いものは徹底していじめられる」
「他人は利用しなければ利用される」
「人からは遅れてはいけない、とりあえず、みんなのやることにそれなりについて行かなくてはならない」
これらのメッセージがきわめて「まとも」だからだ。このドラマを見た大人たちが、ある種の共感を覚えるのは、ああいうことを教えて欲しかったと思う気持ちがあるからなのではないかと、俺は想像する。
だが、主人公の阿久津真矢の行動を教師として正しいかと言われると、間違っていると俺は思う。彼女が教えようとしていることは、確かに学ぶ必要があることかもしれないけど、それらを学ぶのは、学校の教室では無い。家庭だ。そして、それを教えるのは教師ではなく、親かあるいはそれ以外の保護者たるべき人達だ。
社会というものは矛盾に満ちていて、競争と協調が混在していてどちらも必要だ。競争があってそれには勝たなければならない一方で、人との協働があってこそ成り立つので、それには参加しなければならない。だが、ナイーブな態度でそれに臨んでいては、人にいいように利用されるだけ。だから、人と協調しなくてはならないけど、その中で抜きん出ることは常に考えていなくてはならないし、友情は大切だけど、常に裏切られる可能性は頭の隅においておかなくてはならない。こうしたことは、子供たちが社会にでていく上で、必要不可欠な「知恵」であり、子供はそれらを学ぶ必要がある。だが、そうしたことを学ぶためには、親の視点、すなわち、自分の子供が社会でなんとか生き延びていけるように知恵を授けることを目的としていて、極端な話、それ以外の子供はどうでもいいといえる立場を取る必要がある。
学校と言う社会的な場所で、教師と言う立場の人間にとって、そういうメッセージを伝えるのは極めて不得手だ。学校という場は、子供たちが最初に接する社会であり、そこでまず学べることといえば、そうした利己的な人間同士がどうやって、ぎりぎりの協調を行う事ができるかという方の知識と知恵だと思う。
学校で競争を煽り、生存競争を演出して、その中で当然発生するいじめも、それを克服できない生徒の弱さが悪いと結論付ける態度を取ると言うのは、無理だと思う。多分死人がでる。
阿久津真矢のとんでもないカリスマ、超人的な能力、どうしてそんなことまで知っているのかと言う情報量、こうした無茶な設定は、どうしてあれで死人が出ないのかと言う疑問を無理やり押さえつけ、虚構上のリアリティを維持するための仕掛けだと思う。
実はこうした生存競争の世界を教育の場に持ち込み、その中で子供たちを「鍛える」ことができると信じてそれを実践した人が実際にいた。
その名を戸塚宏、学校の名前を「戸塚ヨットスクール」という。
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とここまで書いて、「女王の教室」と「戸塚ヨットスクール」を結びつけて考えた人はたくさんいたのではと思い、検索してみたら、やはり出てきた。「戸塚ヨットスクール」事件をどう考えるかで、この「女王の教室」というドラマをどう見るかも分かれるような気がする。