さて、内容については下の記事で書いたので、ここではドラマとしての「女王の教室」についてちょっと述べて起きたい。
日本に帰ってきてからまともに見たドラマはこれと「古畑任三郎」だけだが、両者に共通するのは、ものすごく舞台的に作られているということ。舞台と言うのは、映画やテレビドラマなどに比べて、リアリティへの要求度が低い。それだけ現実離れした状況を観客は受け入れなければならないわけだ。「古畑」の場合は、ああしたスーパー刑事の存在がその設定(そうでないと事件が解決しない)だし、「女王」の場合は阿久津真矢のあの人間離れした能力がそれだ(そうでないと、あんな教室確実に死者が出る)。
それらの無理な設定を「虚構内の現実」として受け入れられるために用いられているのが、芸達者な俳優の名演、それもややオーバーな演技だというのも、舞台的だと思う。天海祐希の演技は、リアリスティックではないけど、理屈ぬきで受け入れさせてしまう説得力がある。阿久津真矢のカリスマは、そのまま天海祐希のカリスマでもある。
あと、「古畑」にはないけど、「女王」の最後のエンドロールの場面。あれはどうみてもカーテンコールだ。撮影が終わってカットになった後、天海がにこっと微笑んで見せる。あれは、芝居が終わってから出てきて、観客に向ける笑顔だろう。また、出演者が踊って見せる場面は、俺には、イギリスのミュージカルが得意とするカーテンコールでの大ダンスショウにつながるものがあるように思えた。
面白いと思ったのは、こうした舞台的に作られたドラマというのをアメリカではあまり見かけないことだ。まあ、シチュエーション・コメディは、多くが現実離れしているけど、あれはあれでひとつの伝統であって、舞台の作り方をテレビに持ち込んだと言うわけではない。思うに、日本のテレビドラマと言うのは、舞台の人が支えているのではないかなあ。