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"Everything in Life is Only for Now." これはB'wayのヒット作“Avenue Q”の最後の台詞です。 人生いいときも悪いときも決していつまでも続くわけじゃないんだから、投げず、腐らずその時々をなんとかやっていこうや。 この作品の根底をなすこのメッセージ、このブログのタイトルにしました。 ![]() ![]() ![]() ありがとう、エキブロ新聞 ![]() ![]() 最新のコメント
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マクドナルドのキャンペーンで、今日からビッグマックが200円なんだそうだ。これは1971年の開業当時の価格らしい。 へぇ~、そうだったんだ。 ビッグマックは、俺が初めておいしいと思ったハンバーガーである。前にもこのブログでさらりと触れた覚えがあるが、「ハンバーガー」という食べ物には、俺は子供のころ妄想に近いような憧れを持っていた。原因はアニメーションの「ポパイ」である。あそこでウィンピーJr.が、ひたすら食べ続けるハンバーガーってどんな食べ物なのだろうと、ひたすら俺はあこがれ続けた。 で、それがかなったのは、近所の千里ニュータウンに新しく出来た、ショッピングモールの走りのような施設(ローカルネタの分かる方、セルシーのことですよ)にデイリークイーンが入って、そこの割引クーポンがうちにも配られたので、「ハンバーガー食べたい」とわめき続けていたのを知っている(そして辟易している)母親が、子供2人を連れていってくれたのだ。 で、結果は・・・がっかりだった。 理由は、あの中に入っているピクルスがどうにも口に合わなかったことだ。5,6歳の子供がピクルスを嫌ったって何の不思議もないし、何しろ妄想が先行しているわけで、その理想と現実のギャップに、俺は勝手に裏切られたわけだ。 で、その後少し経って、マクドナルドが大阪にもやってきた。今も営業している、阪神デパートの地下の店だ。母親はそこでビッグマックとポテトと飲み物を買って、姉と俺をつれて、屋上の遊園地のまで行き、そこのテーブルでマックを食べさせた。そう、当時「立ち食い」というのは斬新だったけど、旧世代の人間にはいささか受け入れがたいものだったのだ。 ハンバーガー幻想を打ち砕かれていた俺は、ビッグマックにそれほど期待はしてなかったと思う。むしろ、俺が食べたかったのは、当時はまだ一般的ではなく、一種の御馳走であった、フレンチフライのほうであった。で、ビッグマックを食べてみた感想。 おいしかった~。 そんなわけで、その後40年に渡って、ハンバーガーを食べることになったのは、あの時のビッグマックが美味しかったのが原因だと思う。ちょっと極端な言い方だけど、あれがなかったら、アメリカで14年も暮らせてなかったかもしれないね。 というわけで、これから自転車乗って、200円のビッグマック食べに行きます。 それにしても、あれってあのころ200円だったのか・・・。1971年の200円って、確かかなりの価値があったと思うぞ。まあ、これはマクドナルドというファーストフードが当時の最先端の「おしゃれの食べ物」だったことの反映だろうな。その意味では、ビッグマックは40年の間に実質的には値下がりしていると言ってよかろう。
日本中を呆れかえらせている例の「セシウムさん」事件である。 ツイッターに書いたのだが、俺がこの事件の話を聞いて思い出したのが、その昔アメリカのレーガン大統領の時代、毎朝行っている大統領のラジオ放送のためのマイクテストの際に、レーガン大統領が「本日は晴天なり」的なことを言う代わりに、「これからソ連を核攻撃します」と言ったところ、それがそのままオンエアされてしまい、物議をかもしだしたという話である。 その後、もうひとつ思い出した事件と、それに対するある人の論評があった。もう20年近く前のことだが、神戸のとある高校(中学?)で、朝の遅刻の取り締まりをしていた生活指導の先生が、登校時間の終わりと同時に、鉄のスライド式門を勢いよく閉めてはぎりぎりの飛びこもうとする生徒を締め出すということを繰り返した結果、ある日、そういう生徒の1人を門と門柱の間に挟んでしまい、生徒が圧死したいう事件だ。 この事件の報道で「何故こんなことが・・・」的な「まじめな」論評が相次いでいたなか、あるテレビの討論番組で、作家で故人の中島らもは、「この事件は5歳の子供が3歳の子供を池に突き落として死なせた、みたいな感じがする。」と評していた。もうかなり昔の番組でしかも完全に俺の記憶に頼っているので、間違いがあればご容赦願いたいが、彼の発言を俺なりに解釈したものが、「こういう大きな事件になってしまうと、みんないろんな社会構造の問題など、いろんな方面に拡げて『きちんと』論じようとするが、こういう事件が起きるのは、いい大人がガキ並みの判断力で、ガキっぽい行動に出たことで起きているのだから、そういうアプローチをしないと、解決方法も見えてこないのでは」ということだろうと思う。 本当に困ったことだが、人間、特に男は、こういう子供じみた危なっかしいことを、大人になってもやめられない。子供が池に友達を突き落とす「ふりをする」とか、暴走族(死語?)がハコ乗りしたり、という一歩間違えれば大惨事になるようなことを、そうなることは頭の隅で知識としては分かっていながら、現実感をもたないままに面白がって繰り返し、そのうちどこかで本当に事件になってしまう。 このニュースによれば、今回問題となったテロップを作ったのは、50代の関連会社社員とのこと。こういうガキっぽい行動に年齢は関係ないということだろう。 さて、ここからが大事なのだが、このように大騒ぎになったおかげで、そのテロップが流れた番組は現在休止中で、制作者の東海テレビは、事件の検証番組を作って放送するらしい。そこまで問題が広がると、かなりの人数の人が、処罰を受けたり、ひどい場合には職を失うということになりそうな予感がする。 でも、この問題、そこまでの「粛清」が必要だろうか?さらにいうなら、「粛清」したら無くなるというような問題だろうか? 俺から見て、この事件は、同じ原発関連でも、九州電力の「やらせ依頼」のように、組織の構造上の問題が絡んでいるものとは全然違う。だから、大真面目に取り上げて検証しても解決しないし、沢山の人間をくびししたり、あるいは件の番組をこのまま終了させ(かなりありそうだ)ても解決しない。おまけに幸いにもこの事件で死んだ人はいないし、この事件自体が大きく報道されたおかげで、岩手県産のコメに対する風評被害が広がることもあるまい。 必要なのは、いい年こいての「ガキの悪戯へのお仕置き」はどれぐらいが適当か、という視点であって、多くの人の職を奪ったり、みそぎ的な検証番組を放送して、「襟を正しました」みたいにアピールすることではないのだ。 岩手県の米農家の方においては、本当にとばっちりを受けて気の毒なことである。でも、だからといって、厳しい処罰を、東海テレビが受ければ溜飲が下がるというようなものでもあるまい。ここはひとつ「ガキっぽい連中」に対して、「大人な」態度を取ってくださると、不幸な目に合う人々を無駄に増やさずに済むと思うのだが。 とまあ、こういうことをこのような個人ブログで書いても、ただの遠吠えにしかならないことは分かっているが、「大粛清」がまだ起きる前ではあるようなので、このタイミングで言ってみた。 ***** おまけ:この記事書くのに検索していたら、ニコニコ動画にその番組の問題の場面がアップされていた。それにしても、いまや、どんな番組でも誰かが録画していて、アップされるんだね~。
アルク社と言う、英語の教育関連の出版社があって、そこが、「字幕翻訳コンテスト」というのをやっていたので、応募してみた。 俺は、本の翻訳は経験あるものの、字幕と言うのは、全くの未経験で、かなり興味本位でやってみたのだが、結構面白かった。まあ、結果もそれにふさわしいもので、箸にも棒にもひっかからなかったようだ。 そのこと自体は、当然とも言えるのだが、それでも、結果発表と同時にポストされた、「模範解答とポイント解説」を自分の解答と比べながら、見て行くと、俺の中に確実に住んでいると思われる「負けず嫌いの虫」がざわざわと大行進を始めてしまう。 「あんた、ここで言っとることと、ここで言っとることが違っとるやん」 「なんで、この情報がそんなに大事で、こっちが大事じゃないの?」 「なんで、ここは意訳は駄目で、ここはこんなに意訳していいの?」 とか、いうようないう不満の思いがふつふつとわきあがってくるのだ。 とは言っても、まさか、俺のほうが受賞者の作品よりいいなんていう、アホなことを捨て台詞代わりに言うつもりはない。指摘されているポイントには、なるほどと納得するものもあったし、模範解答を見て、ああ、そうすればよかったのね、と思った部分も多々あった。 字幕翻訳というのは、字数制限など、いろいろな制約があって、おそらくや、どんな一流の人がやったものでも完璧に全ての条件をクリアするのは難しいはずだ。だから、それらの中である種の「妥協点」を見出して、完成させているに違いない。そして、どの条件をどう妥協させるかという問題には、ある種の好みのようなものがあるに違いない。 だから、そういうもので、模範解答やポイント解説にどういう態度で接すれば、うまく学びとれるかというのには、ちょっと難しいものがあるのではと思う。 負けず嫌いの虫に頭を征服されてしまい、相手の言葉にいちいち反発して、「この審査員糞!」と捨て台詞を吐いて終わらせていては、何も進歩しない。でも一方で、自分のいままでの考えを全否定して、人の言う通りにやろうとする態度が、何かを学ぶ上で正しいとも思えない。 自分のエゴを適切にコントロールしつつ、他人の意見に耳を傾け、そこから何かを学び取るための正しい態度ってどういうものなのか、この年になっても、よくわからないなあ。 そういえば、中国かどこかのエラい人が言ったっけ。「四十にして惑わず」。 もう40代も半ばを過ぎたのに、戸惑ってばかりだぞ、俺。 それはそうとして、今回応募して、ついでに、字幕翻訳に関する雑誌とか本とか読んでみて思ったのだが、これって、やりたがっている人多いんだね~。そのための学校とかあるんだよ。(もちろん、それを主催しているのもアルク社であるが。)
まずは全く関係のない、AKB総選挙の話。 どうもえらい社会現象にまでなっているようで、若いころからアイドルとかへの関心はかなり薄めの俺までも、普段は見ない「なるほど!ハイスクール」をつけながら、開票速報に目をやりつつ、仕事をしている。 で、その日の特集がたまたま「筆跡診断」であった。そこで、最初のネタフリのVTRで例のチリの落盤事故を取り上げて、彼らからきた「我々は全員元気だ」というメモの筆跡から、彼らの精神状態が安定しているということを診断したというエピソードを紹介していた。それを見て、なるほどなあ、筆跡から書き手の精神状態とか、ある程度わかるんだ、これって結構使えるのかも、と俺は思った。 だが、その後、日本人の筆跡診断の先生とやらが出てきて、AKB48のメンバーの筆跡の鑑定をやっているのをみて、ちょっと失望させられた。彼が言っていたのは、 「様」のへんとつくりをあけるのはがんこでない証拠 「はがきを書く時に、改行が多いのは切り替えが早い。したがって、恋愛対象の切り替えも早くて浮気っぽい。」 というような、話だったからだ。 なんで、こんなことが言えるの? そもそも、「がんこ」っていう性格の定義自体がとっても難しい。それに加えて、それがどうして、へんとつくりの間隔の取り方に現れてくるのかという根拠が全くわからん。それに、改行が多さって、字配りの問題で、そこから、「浮気っぽさ」に結論付けるのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」並みの論理の飛躍じゃないの? 俺が言いたいのはこういうこと。筆跡診断っていうのは、潜在的な可能性はかなりあると思う。だから、心理学上の根源問題である「性格って何?」という当たりもしっかりと念頭に置いて進めていけば、成果は上がるのではないかと思う。それなのに、現状日本では、筆跡診断がうさんくさい占いとほぼ同列に取り扱われてしまっているようだ。これはもったいないのでは? とりあえずは、「性格」っていうとんでもない大問題に直接アタックするよりかは、チリの落盤事故みたいに、「心理状態」みたいなほうに焦点を合わせたほうがいいと思うのだけれど。
今「サンデージャポン」を見ていて、モノマネタレントのコロッケが、被災地の避難所を訪れて、ショウをやって感謝されるという話をやっていたのだが、そこで印象的だったのが、(多分)最後に客も加わって全員で「上を向いて歩こう」を合唱するという場面で、歌いながら、客の被災者の人たちが涙を流したり、終わった後のインタビューで、なんだかほっとした、というような感想を述べていたところであった。 これを見ながら、ふと思い出したのが、子供のころ親に聞かされた、「りんごの唄」の話である。戦後間もないころに大ヒットした歌で、敗戦で心まで荒んだ日本人に癒しを与えたのだというようなことを聞かされた覚えがある。(くわしくはウィキペディアの「リンゴの唄」の項をお読みいただきたい。) こんな話、何十年もの間、俺の記憶のどこかに隠れていたのだが、ニュースを見て、記憶の表に飛び出してきたのだ。 そうか、芸能人の人たちのああいう活動は、現代版の「リンゴの唄」だったんだなあ。笑ったり歌ったりすることさえ忘れて人たちが、それを思い出すことで、気持ちが穏やかになって、明日への活力につながる。そんな終戦直後の悲惨な状況のもとで起きた現象を、現代の日本で見ることになるとはなあ。 コロッケ氏や、その他同様の活動を行っている人たちには、頑張って欲しいものだ。
昨日は東宝の日で、東宝系の映画館が割引だったので、そのために街に出て、深夜ごろに帰宅した。すると帰りのODQ線の電車で、最近ほとんど見かけなかった光景に出くわした。 それは、電車の窓が複数にわたって、かなり大きく開いていたということだ。 その理由は、もちろん、節電のために、エアコンをなかなか動かさないからである。 そう言えば、俺が子供のころは、まだ電車や、ましてやバス、さらには地下鉄にはエアコンがないのが普通だったので、夏になると、電車の窓は大きく開けられるのが普通だった。エアコンが入り始めたのは70年代の後半ごろだったし、地下鉄はもっと遅かったと思う。 今はそれほど暑いわけではないし、エアコンなくても窓開けて問題ないとは思う。空気だって、70年代半ばよりかはずっときれいだしね。ただひとつだけ気になることがあった。 俺が子供のころは、親や小学校の先生から、バスや電車の窓から、手や顔を出すと危ないのでやめなさい、と口を酸っぱくして言われ続けていたのだ。小学校の遠足でバスに乗る前の諸注意の最初はそれだったように思う。最近、そういう話を聞かないが、そいうことを今の親たち、あるいは先生たちは子供に言い続けているのだろうか?何しろ今は、電車もバスも窓を開けないのが当たり前なので、そういう注意自体があまりなされなくなっているのではなかろうか? だとすると、今年節電で、エアコンを止める機会が多くなると、窓を開けることも多くなって、そういう注意を耳タコされていない子供たち、というか、ガキどもが、ガキがやるような行為をして、事故につながるなんてことはないのだろうか? もし、俺の想像が杞憂でないなら、親も先生も、今から、頭の中の時計を40年ほど巻き戻して、子供たちに日常の中に潜む危険について、耳タコしたほうがいいような気がするのだが。
昨日の夜は、テレビで映画「HERO」を見ていた。これは劇場でも見ているし、特に内容的には言うことはないのだけれど、まあ、脚本が良く出来ているし、出ている役者が達者なので、面白い作品であった。 ただその中で何度か、もともと笑う場面ではないところで、おかしいというか、ちょっとこっぱずかしくなるような場面があった。それは、例えば、裁判の真っただ中で、有罪の決定的となるような証拠を仲間の検事たちが探し出してきて、それを法廷に持ち込む。その時、傍聴席のあたりにずらっと並んだ検事たちのクロースアップを、カメラがいわゆる「なめる」感じでつぎつぎと映し出していくという映像だ。 それらの検事たちの表情が、俺にはどうにも「どや顔」に見えてしょうがなかったのだ。 この「どや顔」というのは、関西弁の「どやっ!」(標準語なら「どうだっ!」)という表情のことで、「元関西人」の俺も聞いたことなかったので、最近出来た言葉だと思うが、それでも感覚的には、ピンとくるので、うまい表現だとは思う。主に、関西出身の芸人たちが、テレビで使うことで、最近ひろまったもので、バラエティ番組をご覧になる方は、聞いたことがあるのではないかと思う。 ただ、「どや顔」自体は別に新しいものではなく、歌舞伎の「見栄を切る」なんていうのは、「どや顔」を様式化したものに他ならないし、最近なら、サッカー日本代表のGKの川島選手が、好セーブしたあとに相手を睨みつける表情が「どや顔がかっこいい」と評判になったりした。 ただ、芸人たちがこの「どや顔」という言葉を使うのは主に、ギャグや落ちをいったあとに、芸人たちが「どや、俺の落ち、きまったやろ!」といった得意げな表情をみせてしまったので、せっかくの落ちも興ざめだということで、「そのどや顔どないかせぇっ!」と言う感じで突っ込むためのものとしてである。つまり、「どや顔」という言葉ができたために、「得意げな表情」にはなんでもかんでも「どや顔」と返すことで、笑いに変えてしまえるというパターンが出来た、あるいは、できてしまったわけだ。 先日あるポーカー大会で、相手のベットに対してレイズすると言う強いプレイを仕掛けたプレイヤーがいた。さっそく彼に対して、「なんだよ~、どや顔レイズかよ~」と突っ込みが入って、そのプレイヤーはいささか困惑していた。周りは大受けだったが。 こんな風に、ある笑いを生みだすパターンが出来ると、それが過剰に適用されてしまうことで、本来笑いを作るためのものでもない表現までが、笑いに変えられてしまうという、弊害があるのだろうと思う。「どや顔」は別に、突っ込まれるためだけにあるわけではない。川島選手しかり、歌舞伎しかりである。そうした部分まで、こういうギャグの流行で、笑いに変えられてしまうと言うのには、ちょっとばかり、どうしていいものかと俺自身も困惑する。 断わっておくが、俺は、芸人達を批判しているわけではない。俺は「お笑い」は大好きだし、芸人の皆さんにおいては、いろんな新しい笑いのパターンを作り続けて欲しいと思う。それに、「HERO」をみて思わず笑ってしまったのは、「どや顔」の思考パターンに染まってしまっている俺自身に他ならないのだ。こういう風に、誰かを批判して、済むわけではないというあたりが、この問題のややこしいところだと思う。 最後の最後に、ちょっと別系統の例をだして恐縮だが、歌手の岩崎宏美、最近はコンサートである曲(確か「シンデレラハネムーン」だったと思う)を歌わないのだそうだ。その理由は、岩崎自身は素敵に大真面目に熱唱しているのに、観客のほうは、コロッケのあの有名な物まねを思い出して、笑ってしまうからとのこと。こんな風に、ギャグというものは、流行れば流行るほど、その元になるものの本来の意味合いを潰してしまうと言う意味合いが出てくる。だからどうしろと言われても、すぐに答えがでるような簡単な問題ではないが、ちょっと残酷だなあとは思う。
先日「義援金はどこへ行くのか」という記事を書いたが、その時に俺が問題視していたのは、それが果たして「正しく」使われるのだろうかということだった。で、俺が調べた限りでは、日本赤十字は、義援金を「使う」ことはせず、被災者(団体、企業も含まれていると思われる)に現金として「配る」ということを自治体の作った委員会を通じて行っているということがわかった。「配る」という使い方が、果たして「正しい」のかどうかという疑問は残ったのだが、それよりも、あの時点で俺が気にしていたのは、使い方を決める過程で、日本の公共事業などでよくある、どこかの外郭団体が絡んできて、せっかくの義援金が有効に使われないのではないかという方だったので、とりあえず、筆をそこで置いておいた。 だが、その後、前の記事でちょっとだけ触れた、現在のところ配分委員会はまだ立ち上がっていないので、日赤に集まった金は、一円たりとも被災者に渡っていない、というところを問題視する人たちがネット上で声を上げているのを見た。タレントの清水国明氏もその一人である。 「ちょっと過激な意見です。」 彼の意見は過激だとは思わないが、どうも、チャリティという事業に内在する問題の捉え方が一面的であるように思えた。そこで、慈善団体が募金で集まった金をどう使うかという問題について考えをまとめてみた。 思うに、良いチャリティと言うのは、集まった金の使い方について、3つの条件を満たしていると思う。 1.有効性:集まった金でどれだけ効果的に対象となる人々を助けられるか。(例:義援金として配分するべきか、なんらかの支援事業を立ち上げるべきか。) 2.適時性:対象となる人に必要な時(大抵は出来るだけ早く)に必要な助けを提供できるか。 3.公平性:対象となる複数の人たちの間に、公平に援助を提供できるか。 で、「満たしている」と書いたが、この3つを同時にすべて満足させるのは難しいというか、ほぼ不可能なのは、すぐに想像がつくと思う。つまり、良いチャリティの条件にはお互いにジレンマが生ずるわけだ。日本赤十字のやり方をこの枠組みで解釈すると。こんな感じになるだろうか。 1.有効性:「分配することに決めている。」分配するのが最も有効かどうかは議論の余地がもちろんあるが、分配しない使い方を取る場合に発生するややこしい問題を考えると、この態度を俺は責められない。 2.適時性:「公平性を保つために犠牲にしている。」 3.公平性:「自治体で構成される委員会という恐らくや最も正統的な団体の決定に委ねている。」 つまり、ここでは適時性が完全に犠牲にされているのは確かだと思う。清水氏はこの点を問題にしているわけだ。で、さらに、日赤に頼ることはせずに、もっと適時性を重視したチャリティを自分で始めたい、というようなことも示唆している。それはそれで結構なことなのだが、清水氏が適時性を重視したチャリティを立ち上げたとしても、そのことで、彼が有効性、公平性、というそれ以外の条件から解放されるわけではないことは、理解しておいていただきたいと思う。 特に、清水氏のような有名人が自らのネームバリューでもって、「クイックにダイレクトに活動している人たちも、是非支援」するような募金を行うと、それは、もしかしたら、日赤にいってもっと「公平に」使われたかもしれない募金を清水氏の募金のほうに集めることになるかもしれない。そういう批判があった時に、彼は明確な答えを持っていなければならないであろう。チャリティを行おうとする人は、募金してくれる人に対して、「有効性」、「適時性」、「公平性」という条件に対して、自分がどういう態度をとる(どうバランスを取って、ジレンマを抑える)かについての説明責任があると思うからだ。 誤解しないでほしいが、清水氏にやるななんていっているのではない。既にみたように、今回最大のチャリティ団体となっている日本赤十字のやり方は、適時性が最大の弱点となっているのは、明らかだからだ。それを補おうとする、別のチャリティは当然あっていいと思う。
ツイッターでちょっとしたブレイク中のデーブ・スペクターのツイート。 「福島という素敵な地名が原発事故の場所として記憶されるのはあまりにひどい話です。いまから原発を誰かの名前にするとか何か手はないでしょうか。」 ああ、これは面白い考え方だ。実は俺も気になっていた。今回の原発事故で、”Fukushima"の名前が、「原発」もっと露骨に言えば「放射能」と連想して、世界中に記憶されるのはもはや避けがたい。でも福島って言ったって、広いわけで、今回の事故がどう落ち着こうが、福島県全体が放射能で汚染されるわけではないのは、日本人ならわかるが、世界の人にはそうではない。 我々だって似たようなもので、「チェルノブイリ」で「原発」以外のことは思い浮かばないけど、「チェルノブイリ」というのは、れっきとした街の名前であって、ちゃんとした歴史があったのだ。(「あった」と過去形で言わざるを得ない辺りが、あの事故のすさまじさであろうが。) いまや、日本中のどの都道府県も、外国からの観光客誘致に奔走している(せざるを得ない)ご時世だ。そんな中で、今回福島県が受けたダメージはあまりにも大きい。 で、デーブ・スペクターの提案だが、彼は直接は言及していないが、原発は、それを誘致したり、推進したりしたりした政治家の名前を「冠して」しまえと示唆しているのだろうと思われる。呼び込んだんだから、最後まで責任とってよ、というわけだ。まあ、実現の可能性はというと、あんまりないとは思うが、政治家の皆さん、経済面等ポジティブな面だけ強調して、誘致してないで、これぐらいの覚悟は固めてよ、というのは、かなりの数の人が思っているのではなかろうか。
今回の震災に関しては、さまざまなチャリティが立ち上がっており、いろんな人が参加している。で、それらのかなりの割合が、集まったお金の渡し先として日本赤十字を選んでいる。まあ、これは妥当な選択で、個人とか小さな団体が自ら義援金を配分するというのは、不可能だったり、募金者の信用を得にくかったりするのだから、そういうことにかけては専門家でネームバリューも高い日本赤十字を選ぶわけだ。 で、その日本赤十字であるが、今回の災害で集まる額はおそらく史上最大級になるのではなかろうか。とすると、それをうまく使う、あるいは「正しく」使うというのも大変な作業だと思う。どうやって、それをやるつもりなのだろう? こんな「いらんおせっかい」に思いを巡らすのは、NYにいたころの9/11の経験がもとになっている。あの時は、とんでもない額の募金がアメリカ赤十字社に寄せられ、それが使いきれない額に及んだ。その結果、相当な額の金が、「一般基金」に回され、9/11とは直接関係ない事業、極端なことをいえば、赤十字社の社長の給料なんかを賄うための基金となったのだ。この話はある調査報道番組で見たことの記憶に基づいているだけなので、完全に正確かどうかは確信が持てないが、それでも、「普段ではとても取り扱わないような多額の募金が集まった時、それらをどう使っていくのだろうか。」という疑問が湧いても不思議ではないのはお分かりいただけるかと思う。 で、日本赤十字のHPを見てみると、使い方を決めるのは、赤十字ではなくて、「義援金配分委員会」という、都道府県や市町村、それに日赤などが加わって作られる委員会だそうだ。過去にも大災害が起きた時は、そうやって、配分を決めているらしい。 ちなみに、今回の東日本大震災に関しては、まだ、その委員会が立ち上がるところまでいってないというのが現状だとのこと。 ちなみに中越沖地震の場合を参考にすると、 委員会→市町村→被災者 という流れで配分されたようだ。とすると、義援金は最終的に全額被災者に現金の形で手渡されるということか?まあ、それが当たり前だともいえるわけだが、ものすごく直接的なので、ちょっと驚いた。まあ、それならわかりやすくてよろしい。あとは、これだけの広域にわたる災害なので、配分の公平性がどうなるかということだけかな。 < 前のページ次のページ >
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