久々にウッディ・アレンの映画を見たけど、面白かった。
ウッディ・アレンの映画を楽しめるということは、それは「東海岸のインテリ」であることを意味する。(厳密には「NYのインテリ」なのだけれど、まあ「東海岸」全体を含めていいだろう。だが、断じて西海岸ではない。)
「インテリ」なんていいうと、褒め言葉に聞こえるかもしれないが、実はそうではない。言葉を代えていうならば、俺を含めて、ウッディ・アレンの映画を見て笑っているやつは、自分が「東海岸のインテリ」に属していることを認めざるを得ないということだ。
「東海岸のインテリ」とはどういう連中かというと、高い教育を受けていて、概して育ちもいいけど、同時に自尊心が強くて、自意識過剰気味で、いささか人を見下したところがある。そのくせ、人一倍、心の中に不安と空虚な部分を抱えていて、常に、今の自分はこれでいいのか、誰でもいいからこれでいいと言ってくれ、いや、やっぱり自分の幸せはもっと別のところにあるんじゃないのか、と自問し続けている。
そうした連中を、突き放した視線から、コメディとして描き続けてきたのが(自身もそのひとりである)ウッディ・アレンであり、「東海岸のインテリ」達は、それをみて自虐的な悦びにひたるわけだ。
(以下軽いネタばれあり)
この「それでも恋するバルセロナ」でも、メインキャラクターであるヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)の2人は「東海岸のインテリ」である。ただ、両者はかなり両極端な恋愛観と人生観を持っており、ヴィッキーは堅実な人生、そして、堅実な男性との安定した関係を持つことこそ幸福だと考えている。一方クリスティーナはそうした堅実な人生や安定した関係を退屈なものだと感じ、自分には求めている別の世界があると思い、あれこれ模索するのだが、「自分が何を求めているか分からず、ただ、何を求めていないかだけはわかっている」(映画のナレーションの引用、この表現結構重要)状態である。
この2人がバルセロナでひと夏を過ごし、そこで、ボヘミアンの芸術家のフアン・アントニオ(ハビエル・バルデム)やその元妻マリア・エレーナ(ペネロペ・クルス)、あるいはその他の人々と出会い、特異な経験をする中で、自分の人生観、幸福感が破壊され、一気に別の方向に振れ・・・そうになるのだが、結局はそうならず、元のままに戻って終わるというのが、この映画のストーリー。
俺なりにこの映画を一言でまとめると、「2人の『東海岸のインテリ』が、バルセロナでの特別な経験を通じて、何も学ばず、何も変わらない話」である。どう?身も蓋もないでしょ?
それがなぜコメディとして面白いかというと、ヴィッキーもクリスティーナも「東海岸のインテリ」だからだ。2人とも親友ではあるのだが、実は心のそこでは、お互いの人生観をしてしているし、それどころか見下してさえいるのだ。そういう高慢ちきさがあるからこそ、バルセロナで、それが崩壊の危機に直面している姿が笑えるのだと思う。
そんなわけで、この映画は、ヴィッキーとクリスティーナという2人の「東海岸のインテリ」の物語なのだが、どうも、日本の配給会社は、その辺の構図が見えていないか、あるいは、見えていても、それは日本人にはわかるまいと決めてかかって、別の売り方をしているように思える。普通の恋愛コメディとしてみてもそれなりに面白いとは思うけど、それだけじゃなあ。
とまああれこれ言ったけど、アレンの映画の中では、比較的わかりやすいと思うし、楽しめる作品なので、見て損はないよ。